私が聞いた、沖縄のこと 風のたより95号より

2003年3月にアジア女性資料センター沖縄スタディツアーに参加した。

あるお母さんの語った、「沖縄の子共たちの原風景は『迷走服と戦車』」という言葉。山・川ではない故郷。

私自身ある夜、まだ10時くらいだったと思うが北区の志賀本通で戦車を載せたトレーラーが目の前を通過した。この世のものかと不気味さを感じた。自衛隊基地の周辺、日本の各地にある基地の周辺では日常茶飯事の風景なのだろう。でも私は今でもその風景を思だすと重い気分になる。

オキナワを各地の基地を、そしてフクシマを思う。なぜ何かを犠牲にしなければなりたたないのだろう。みんな生きることは同じことなのに。今日は沖縄慰霊の日.

6月1日号 風のたより95号 より

アジア女性資料センター沖縄スタディツアー報告書
女たちのメディアジャック(うないフェスティバルについて)

源啓美さん(記録:土井ゆきこ)

2003年3月28日 スペース結にて
ナイロビから沖縄へ、沖縄から北京へ、流れをつくった「うないフェスティバル」

■ 『うないフェスティバル』生みの親、源さんは語る

 「彼女はラジオ局のディレクターで、あらゆるジャンルの女性たちと出会っていたことがもとで、『うないフェスティバル』の生みの親となった」との紹介で現れた源さんはアップのヘヤースタイルのちょっと小柄な人。早い口調なのでメモが追いつかない。

■ 私の原点は島にある

 今日3月28日は、大切な日なのでここにいてはいけなかった。その大事な日を忘れ約束してしまい、今ここにいるのですが、58年前の今日、慶良間(けらま)諸島で集団自決があった日です。慶良間諸島は世界でも有数な透明度のある海の美しい島です。私の島では半分の人が死にました。その慰霊祭がある日で取材しなければならなかったのです。昨年は「57年目の証言」として取材をしました。自分の生まれた島なのですが、身内だからこそ話してもらえなかった。なぜお互いに殺しあうことができたのか?わからなかったのです。当時16~17歳の生き残った人の証言は(彼は母と妹を殺しています)「愛する者ほど確実に殺した。なぜなら米軍の捕虜になると女性は強姦され男は耳をそがれ、目をつかれて殺されるということ本当に信じていたから。」と語った。

■ 「しまった! 一人だけ生き残ってしまった」と思った母

 私の母は南部で手りゅう弾を手に集団自決をした。目が覚めたとき彼女は「しまった!」と思った。「一人だけ生き残ってしまった」と・・・生きる方が困ったわけです。波の音を頼りに暗やみの中、海に飛び込みましたが引き潮で死にきれなかった。全身傷だらけで気がついたときは、野戦病棟にいた。今私がここにこうしているのは、そんなわけです。

続きは 風のたより95号

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